2024年9月号『念仏こそ』
今年、令和六年は法然上人が浄土宗を開宗されて八百五十年目の節目に当たります。
法然上人は一一三三年、今の岡山県久米南町にあたる美作の国の稲岡庄で生まれました。父はこの地の豪族で漆間時国、母は秦氏で漆間家の跡取りとして大切に育てられました。
上人が九歳の時事件が起こります。当時荘園を管理していた時国が対立関係にあった隣の明石定明の夜討ちに遇い、敵の矢が時国に刺さりこれが致命となって亡くなってしまいます。まさに息絶え絶えの臨終間際、父は幼い上人にこう遺言します。
「敵を恨んで仇討ちをすること勿れ。憎しみの連鎖を断ち切れ。それよりも仏門に入って私の菩提を弔え」と。
当時は武士の世。仇討ちは当然のこと。
しかし上人は父の遺言を固く守ります。そして十五歳の時に比叡山に登り三十年近くの修行を送ります。どんな身分の人でも必ず救われる教えはないかと考え続ける日々。
ついにナムアミダブツのお念仏さえ唱えれば極楽浄土に救われる教えを見出されたのでした。一一七五年(承安五年)上人四十三歳の春のことです。
父、時国の仇討ちをすること勿れの遺言なくしては上人が仏門に入ることは無論のこと、誰もが等しく救われる浄土宗の開宗もなかったのでした。
今、時代はまさに時国の遺言を求めています。複数で起こっている戦争。犠牲になる幼い子ら。憎しみの連鎖。解決の糸口すら見出せないまま。何とかならないものか。
七十九年前の日本の夏もそうでした。大勢の命が奪われた終戦までのことが思い返されます。
先日ラジオ番組で広島原爆被爆者の特集がありました。山下一文さんという世界的な指揮者のお母さまは博子さんという方で被爆をされました。大やけどを負いましたが幸い治療の結果回復し奇跡的に一文さんを授かりました。博子さんには当時六歳になる音楽好きな有作さんという弟がいました。一緒に被爆したのですが一週間後に容体が急変しました。博子さんや親戚が見守る中寝ていた有作さんが静かに念仏を唱え始めました。ナムアミダブナムアミダブ。両手をきちんと合わせて唱えます。「僕ね、ちっともさびしくないよ。だってこれから仏さまやご先祖様に会えるんだから」と。合わせた掌から力が抜けていきます。周囲のもういいからと心配する声も空しく力尽きてしまいます。
とても六歳の子が発した内容とは思えませんが博子さんの手記には克明にこの事実が綴られていたのでした。有作さんはお念仏とのご縁を結んでいたのです。早世されたことは何とも悲哀な定めではありますが、確かに極楽浄土に往ってくれたという周囲の切ない安堵感が伝わります。
八百五十年の年月を考えるとき、こういう思いで最期の瞬間を迎えた無数の人たちの姿が重なります。
至らない無力な私だからこそ唱えずにはいられないのがお念仏。そのことに気付くと唱え続けることで気持ちが楽になります。
仇討ちの気持ちはこの私の中にも絶えずあるように思います。そんな時こそお念仏が大事です。お念仏の輪が広がることが人々の安寧に繋がることと確信します。
今月は秋のお彼岸月です。 みなさま方とご一緒に、お念仏に励んで参りましょう。