2022年6月号『祈りの夏』
夏と共に祈りの季節が巡ってきます。
「祈り」とは神仏に願うこと。
語源は「生宣(いの)り」で「い」は生きること、「のり」は宣言を意味します。ですから「いのり」は生命の宣言という説があります。自分が今ここにあることを精一杯声に出して仏さまに願ってゆくことが「祈り」の姿のようです。人間は古来より祈りという行為を続けてきました。声を出すことによって思いもよらない力があることを実感してきたからです。
お念仏はまさに祈りの姿を象徴しています。
法然上人のお言葉の中に次の一節があります。
仏の三業(さんごう)と行者の三業とかれこれ一つなりて仏も衆生も親子のごとくなる故に親縁(しんねん)と名づく
(仏さまと私たちとは祈り、祈られる関係があり、ナムアミダブツとお唱えすれば仏さまは必ず聞いてくれる。それは親子のようなので親縁と名づける)
なんと、お念仏申す私たちには産み育ててくれた血縁の父母だけでなく、親縁の仏さまがあり共に護ってくれているのでした。南無阿弥陀仏の一言は私たちがおかあさんと母を呼ぶ声なのです。
昭和二十年鹿児島の知覧より特攻隊として出撃した相花信夫さんの遺書です。
母を慕いて
母上様お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だっただろう
母上お許しください
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
この時この方は十八歳。最後に発した「お母さん」の一言こそお念仏に通じます。
今、まさにウクライナの戦場でこんな想いがあるかもしれず、一刻でも早く平和を取り戻せないかと切望します。
そうでなくても私たちの生命は有限であることには変わりがありません。そんな中で私たちはどう日暮していくべきか。
連載ESSAY(本誌三頁)の井上明久さんが書かれている「生の最後の行為」の中にもその答えがあるように感じます。
「何かを始めるのに遅いということはない」仏さまはいつでも待っています。祈りと共にこれからもお念仏をして参りましょう。
お盆が近づきました。
お寺では感染状況に応じた対策を講じみなさま方のお参りをお待ち申し上げます。