
2026年1月号『共に生きる』


京都の市中にまだ市電が通っていた昭和四十年代の後半、私は左京区にあるお寺から宗門の高校に通学しておりました。その寺は専念寺といい、当時の住職は俵口隆成師。総本山知恩院の布教師で、布教に大変熱心に取り組み、常に全国の寺院へと説教に呼ばれる方でした。
私の亡父・眞成とはそんな布教研修の場で縁があり、将来に備えて私を俵口師に委ねたのでした。高校生活の傍ら、休日には法要や葬儀の手伝いがあります。導師である住職と四人の僧侶が一組となって行うことが多く、私もしばしばその一人に加えられます。しかしお経が読めるわけもない無資格の私は当初はただ座っているだけ。足のしびれにはほとほと困りました。見かねた兄弟子が時々指導はしてくれたので、何とか形にはなってきましたが、今思い出してもあの時のやるせなさが蘇ります。
そんな私でしたが住職は小言を言うでもなく、寺の食事では物足りないだろうからと祇園の食事処に連れて行ってもらったこともありました。
妻に先立たれ子どものいない方でしたが、随身という弟子を住まわせお手伝いの老女に賄をさせることで寺の運営と布教に専心したのでしょう。
「よっしゃ よっしゃ」が口癖で周囲を明るくする人柄でもありましたが、毎朝妻の遺影に向ってとなえるお念仏は、何かを語りかけているようでもありました。私が高校を卒業し実家に戻った翌年の冬、五十代半ばで急逝しました。
五十年以上もたった今頃になってよくこの方のことを思い出します。いやむしろ老境に入り眼も見えずらくなった今だからこそ蘇るのでしょうか。あの師がいたからこそ今の自分がある。今となっては直接お礼を言うことは叶いません。
善導大師の「発願文」の中に次の一節があります。
彼の国に到り終わって 六神通を得て 十方界に還って 苦の衆生を救接せん
(極楽に生まれて人の心ざまが手に取るように分かる力を得て私たちを助けてくれる)
先立たれた方々は私たちのことを想ってくれています。仏さまの力によって亡き方が私たちにその姿を見せてくれる。この思いに至ったとき ナムアミダブツのお念仏が思わず口をついてきます。さらに唱え続けていくことで故人との新しい出会いが深まっていきます。
私たちはそうした無数の故人とともに今を生きています。
令和八年、新しい年が明けました。
お念仏を通じて幸せな年でありますよう ともに念じて参りましょう。
(住職 畑中芳隆)












