2020年9月号『一日千秋』
猛暑の中にも秋風の吹く季節となりました。
コロナ騒動が始まって半年余り、お寺の行事も自粛されています。当初は秋が来れば少しは落ち着くのでは、とまさに「一日千秋」の想いで過ごしてきましたがなかなか終息の兆しは見えません。実りの秋、収穫の秋、そしてお彼岸の秋。そんな秋が千回巡ってくるには千年かかります。一日千秋とはたった一日が千年間のように長く感じるという譬えです。
毎日発表される数字を聞くと自分がコロナに感染したらどうしようという不安が常によぎります。重症化や差別をされるのではないかという恐れ。一方で人を見ると感染は大丈夫だろうかという(自分が感染源かもしれませんが)疑い。
そんなことを思ってはいけないと感じながらも現実に数字があがってくれば事実として迫ってきます。
こうした思いはどうしたら消し去ることができるのでしょうか。
いや、そんなことは現状では不可能では、と言う人も。
さらに特効薬ができたにしても我先にと殺到すれば一体いつになるのやら。
こうした中で自分は無事でいたい、あるいは自分のまわりの大切な人は無事でいてほしいと願うことは人としてきわめて自然なことではないでしょうか。そのために我先に、私だけはと行動したにしても誰がそれを責められるのでしょうか。
人の世はあたたかい思いやりの世界でもありますが、反面不安と孤独の世界のように存じます。
そのことに気づくことが少しでも和らぐように思えます。
こうした人の生きざまを見抜き、私たちに仏さまと共に本当の生き方を教えてくれた方がいます。
法然上人は人の命がさらに儚かった八百年余り前に私たちにこうご遺言されました。
一文不知の愚鈍の身になしてただ一向に念仏すべし
(自分は経典の一文さえわからない愚かな者と受け止めてひたすら念仏すべきです)
一枚起請文の中のこの一節はとりわけ大事な個所として今日まで伝えられてきました。
欲望という愚かさを持つからこそ人であって、ありのままの姿の私たちを仏さまは救ってくれます。法然上人はこのような愚かさを自覚しなさいとお示しされたのです。それがお念仏です。
まずは実践。
なむあみだぶつとお称えしてみましょう。
どんな時でも仏さまと一緒にいるという安心感が広がります。思い通りにならないこともむしろ自然と感じます。
一日一日を千年の時の流れのようにゆったりとお念仏と共にお過ごし下されれば幸いです。今月は秋のお彼岸月。どうぞお寺に、お墓にお参りください。
住職 清譽芳隆