2020年3月号『光かがやく』
みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる 斎藤茂吉
のこの歌は今でも小中学生の国語の教科書に載っています。山形県出身の茂吉は十五歳で単身上京をして医者になるべく苦学しますが、母と過ごした時期は長くはありませんでした。その母が危篤と聞いて急いで故郷にもどる歌です。たった一瞬でもいい、生きている母に会いたいという切なる気持ちが伝わります。そこにはまさに死にゆく母がいました。
我が母よ死にたまいゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
死が迫る生んでくれた母にただ呼びかけるだけの歌。その必死な呼びかけが読む者の胸を打ちます。
ありのままの自分の感情を表現した最初の歌集「赤光」に収められたこれらの歌で茂吉は歌人として一躍有名になります。
赤光という語は『阿弥陀経』のお経の次の一説から引かれたものです。
池中蓮華大如車輪 青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光 微妙香潔
極楽の池に咲く車輪のように大きな蓮は、赤い蓮の花からは赤い光が放たれている、他に青い花からは青い光、黄色い花は黄色の光、白い花は白い光が放たれ何とも言えず香しく潔らかである
これを私たちの世界にたとえると、人はひとりひとり違った色を持っているけれどそのままの色で輝いてみんなが調和していること。
お互いが認め合いながら生きることを阿弥陀経は説いています。さらに、輝くためには光が必要で、その光こそが仏さまの光であります。極楽の光と同様にこの世にも阿弥陀佛の光がとどいているのでした。
なぜ茂吉は赤光の題名を阿弥陀経に依ったのか。茂吉の生家の隣には菩提寺である浄土宗宝泉寺があります。茂吉は当時の住職に感化されたこともあり寺に弟子入りしようかと考えたといわれます。
それは実現しませんでしたが、茂吉の墓はこのお寺にあり赤光院仁誉遊阿暁寂清居士という法号(戒名)が刻まれています。
茂吉の母を想い母を呼ぶ振る舞いは私たちお念仏を唱える者に通ずるところがあります。早くに生家を出て家族と離れて暮らした茂吉にとって生母は遠くの存在だったのでしょう。
しかし、だからこそ最後に会いたい、呼びたいと思うのです。
私たちもまた、どんな状況にあったとしても最後に頼れるのは仏さま。ナムアミダブツの一声は母を呼ぶ子の一声にほかなりません。
今月は春のお彼岸月。心を落ち着けてお念仏にしばし浸っていただくとき。
どうぞお寺にお参りください。
住職 清譽芳隆