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2018年12月『かなしみ』

悲しきかな、悲しきかな、いかがせん、いかがせん。
ここに予がごときはすでに戒定慧三学の器に非ず。
(徹選択集)

《意味》
ああかなしい、本当にどうしたらよいだろうか。
私のような者はもはや戒定慧という三種の修行ができる器ではない。

 これは『徹選択集』にある、法然上人の御言葉です。この世でさとりを得る仏道修行(戒をまもり、心の安定を得て、さとりの智慧をおこすこと)に比叡山で励んでいた法然上人が生まれた時から既に煩悩を持っている己では、自分の力ではどうしてもさとることができないと、自覚し、悲しみとやり場のない心情を吐露した御言葉です。
 前に向かっていく気持ちが、自分の力の限界に至って立ち止まらなければならないとき、力不足を感じながら何もすることができないでいる状態を、私たちは「かなしい」と表現します。

 私たちは生きていく中で、様々な悲しいことや、辛いこと、苦しいことに直面します。身近な人の死、人間関係、社会の不条理、後悔や自己嫌悪などは誰にとっても望むことではありません。
日々の暮らしを健やかな気持ちで過ごしていきたい、そう感じるのが自然です。
病気もなく、人間関係や仕事、家庭もうまくいっている、そんな状態にある人にとって、仏教はあまり必要とされていないのかもしれません。しかし人間いつまでもそうはいかないもので、思いどおりにならないものです。人生には、自分がこうありたいと思い、歩んでいく中でうまくいかず、つまずく瞬間が必ずあります。

 幼かった頃、祖母を亡くし「人は必ず死ぬ」ということを実感しました。まだ一緒にいたい。どうか阿弥陀さまあの世へ連れていかないでほしい。
夜、暗い本堂の中、阿弥陀さまを前に掌を合わせたのを今でも覚えています。
いつも見ていた祖父や父が本堂で人を弔う姿から、お念仏をすれば祖母は助かるかもしれない、そう思った期待とは裏腹に、その日、祖母は息を引き取りました。「人が死ぬ」という事を前にして仏さまは無力だと悲嘆した当時、いま振り返るとお念仏は魔法の言葉などでは決してなく、祖母の死は、「いずれ誰しもが必ず死ぬ」という、もっとも根本的な事実を、そのとき阿弥陀さまから教えていただいたように感じます。

 穏やかな春風が吹いていた四十九日。やり場のない悲しみの中、立ち止まってふと足元をみると、紫色の花をしたムラサキケマンが咲いていました。
平坦な道路の端にも、厳しい上り坂の山道にも、どこにでも咲いている雑草です。普段なら気に留めることもなかったと思いますが、茎が太く日陰にひっそりと咲く、その雑草の存在に気がつきました。ムラサキケマンという名前の由来は、仏具のひとつ「華鬘(けまん)」という装飾具に似ていることからこの名になったとされています。ムラサキケマンの花言葉は「あなたの助けになる」です。

 身近な人の死を迎え、やり場のない悲しみの中で立ち尽くしても、御念仏を通じて、亡き人を身近に感じることがあります。「ただ南無阿弥陀仏と御念仏を称えれば、極楽浄土に往生でき、誰もが救われる」浄土宗の教えの原点には、冒頭で述べた、法然上人が「人間とは何か」を直視し、己の限界、人間の限界を悲しんだところにありました。立ち止まったとき、いつだって、あなたの助けになる存在があります。

 つらいときも悲しいときも、うれしいときもいつだって、阿弥陀さまは私たちに寄り添ってくださいます。仏教はいまを生きる私たちのためにあります。生活の中心にお念仏とそのみおしえを据えて過ごしたいと思います。私たち僧侶は、皆さまが健やかな気持ちで日々を送られることを願い、支え、寄り添う存在でありたいと思っております。

副住職 順譽芳明

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