2018年6月号『遠くて近い』
平安時代の清少納言は「遠くて近きもの」として 極楽、舟の道、人の仲を名著「枕草子」で挙げています。舟の道は舟路、人の仲は男女の仲ですが極楽が最初に挙げられているのはそれだけ大切に思われていたのでしょう。
極楽は実在するところです。
お経には
「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽という。その土に阿弥陀佛まします」とあります。
赤々と燃える夕日を眺めていると、ずっとその先に極楽があると思われてきます。また、一方で、
「阿弥陀佛ここを去ること遠からず」と記されたお経もあります。「ここ」とは今私たちがいるところですから、仏さまがいる極楽はすぐ近くにあると説かれているのです。
どちらが本当なのか。
近いという言葉は単に距離が、時間が近いだけでなく、関係が親密であるとの意味もあります。まさに人の仲はそれにあたりますが、極楽が遠いか近いかはその時の私たちの気持ちの持ち様によるという考え方があります。
順風満帆、今の自分は何の手助けも必要としないと思う時、この世が充実していると極楽は遠い世界、そこがあることすら忘れている自分がいます。
反面、気が弱くなっているときはどうでしょう。誰かの何かの助けが必要と感じる時、この際だから阿弥陀さまにもお願いしておこうと自分自身に言い聞かせます。
どちらが本当の自分なのか。
答えは明白、どちらも本当に決まっている。人生いい時も悪いときもあるじゃないか。と至極当然に受け入れる私がいます。
遠くて近い仏さまからはこんな私はどう見えるのでしょうか。もしかするとどちらも勝手な考え方だと一喝されるかもしれません。
お前が順調の時その陰で泣いている人がいないか。
お前が嘆いているときその苦しみをともに味わっている人のことを考えたか。
振り返ってこんなわが身であったかと思うとまさに愕然とすることでした。本当の自分の正体は常に身勝手で我欲に満ちた者であったのでした。遠くにつけ近くにつけとにかくこんな私を救ってくださる阿弥陀さまがいること、極楽があることが一層ありがたく思われます。
なむあみだぶつと我が名をとなえよ、必ず極楽に救うと誓われた阿弥陀さまの願いにしたがうことがお念仏。法然上人は他の修行は何もいらない「ただ一向に念仏すべし」と私たちに八百年あまり前にご遺言されました。声を出だせよと仰せになりました。
お称えの声を出し続けるうちに自分が悪かった、すまなかったという思いが交錯します。さらには頭でばかり考えて悩んでいることがふっと超えられて、理屈ではなくて救われていくように感じます。「ただ一向に」お称えをしてゆく世界はなんと果てしなく安らかな境涯なのかに気づきます。
しかし残念なのはその想いはお念仏を離れるとまたすぐに現実の世界に戻ってしまうことです。「遠くて近い」などと分かったようなことを言うなと仏さまから叱られそうです。こんな私だからこそお念仏しか残されていないと確信します。
おせがき、お盆の季節が巡ってきます。ご先祖様、往生された方のお迎えをしてまいりましょう。 みなさま方のお越しをお待ちしております。
浄相院 住職 清譽芳隆