2021年1月号『三密』
あけましておめでとうございます。
コロナ禍が収束に向かい平生が戻る歳とならんことを願うばかりです。
昨年の漢字は「密」。言うまでもなく三密の密です。 しかし、仏教ではこの三密を大事にしてきました。もちろん密閉・密集・密接ではありません。唐の時代からの密教の三つの密です。
私たちのお念仏の教えではこの三つを身と口と意ととらえます。仏さまに対する私たちの姿勢のことです。身は仏さまを礼すること。口とはお念仏をとなえること。意とは仏さまを想うこと。
法然上人は私たちがこのような態度で仏さまに向き合えば必ず仏さまもこれに応えて私たちのことを「見て」「聞いて」「想って」くださっている、それは親子の関係のようになる、とお示しです。
実際にお念仏申す私たちに仏さまが何か声をかけてくれれば、もっとわかりやすいのですがそうはいきません。
会津八一という歌人が奈良の法隆寺に安置された観音菩薩を見てこう詠みました。
あめつちに われひとりゐて たつごとき このさびしさを きみはほほゑむ
天地のはざまにただ一人立っているような、この私の胸にこみあげるさびしさに、御仏が微笑みかけてくださっているようだ という歌です。
お仏像を拝むとき、そのお顔を一目見て、何かを感じる瞬間はどなたもお持ちではないでしょうか。それは温かさであったり、励ましのエールであったり、共に泣いてくれる寄り添いであったり。声なき声が語りかける。仏さまと向きあうことの尊さ。
けれども、いつも仏さまと共にいることだけを想い続けられればさぞかし私たちの日暮は安らかかとは思いますが、現実はそうはいきません。時には気持ちの余裕がなくて、真正面から仏さまと向き合えないこともあります。自分を守ることが精一杯で仏さまのことを忘れ続けることすら珍しくありません。
京都の永観堂には「見返りの阿弥陀佛」として有名な真正面ではなくお顔を横に向けた仏さまがいらっしゃいます。どうして横を向いているのか。
そこには真正面から人々の心を受けとめても、なお正面にまわれない人のことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏の御心があるのです。いつでも私たちのことを「見て」「聞いて」「想って」くれているまるで親のような仏さま。
新しい年が明けました。
まずは一番近く親しいお家の、そしてお寺の仏さまにお参りください。
感染の三密は避けつつ、仏さまとは身口意が密になるように今年もお念仏を続けて参りましょう。
住職 清譽芳隆