新たな、そしてかけがえのない意味(2/4)
春、三月、彌生。
こう書いただけで、心が少し浮きだってくる。
暑さ、寒さも彼岸までと言われるように、春のお彼岸を迎えると、ほのあたたかな春の陽ざしが感じられるようになる。彌生とは草木がいよいよ生いしげるさまのことで、旺盛な生命力を意味する。陽気が良くなると、重いコートを脱いで、大好きな町歩きを思いきりしたくなる。
町歩きを真に楽しむためには、身も心も軽くなければいけない。つまりは、健康でなければ楽しくない。少しでも調子が崩れると、歩いていても気持ちが高揚しない。ついつい、足が重くなってしまう。健康な時は町歩きが楽しいし、その逆に、町歩きが楽しい時は健康であると言える。
人生における四苦の一つに「病」がある。確かに病は苦しい。ちょっと調子が悪いだけでも、心の天秤は悲観的な思いの方に傾く。ましてや、長い病や重い病なら量り知れぬ苦しみがそこにはある。
作家の堀辰雄は、小説「風立ちぬ」の中でサナトリウムに入った婚約者につきそう語り手の青年に次のような感慨を抱かせる。
「そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私たちの日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出すのだ。」
49年の生涯で、十代の終りの発病から30年にわたり病と向き合って生きた堀辰雄ならではの、靭く、深く、尊い心境ではないだろうか。 堀辰雄が苦しい病の中でそうした気持ちを持つことができたのは、ひとえに生きんとする意志の力であり、「普通の人々が、もう行き止まりだと信じているところから始まっているような」(「風立ちぬ」)人生に、新たな、そしてかけがえのない意味を見出したからにちがいない。