2023年9月号『気配』
猛暑のこの夏でしたが朝晩にはわりと涼しい風が吹くようになり、秋の気配が感じられます。
気配とははっきりとは見えないが漠然と感じられる様子のこと。暑さでさんざんな目に遇った分だけ涼しさには敏感になっている私たちがいるようです。
同じような言葉に「きざし(兆し」があります。もとは「気差し」と言われます。「気」は万物を育成する大地の精気。大自然にあふれる不思議な力が差し込んで四季折々の自然現象が織りなされてきたとされます。
それと同時に私たちはこれらの言葉を通してほんの些細な変化が何か良いことに、ひいては大きな幸せにつながっている期待を感じることがあります。今いる状況が厳しければなおさら期待は膨らみます。
「無量寿経」に次の一節があります。
もし、三途勤苦の処に在りて此の光明を見たてまつらば、皆休息を得て復苦悩なし。
(もし、地獄などの苦しみの中にあって、この光明を見ることができれば、みな安らぎを得て、悩み苦しむこともなくなる)
光明とは仏さまの光のこと。どんなに苦しい中でもほんの一条の光明を感じることができればお念仏をお称えすることによって必ずその困難から抜け出し心休まる、と説かれています。
芥川龍之介の有名な小説に「蜘蛛の糸」があります。地獄に落ちたカンダタという男がある日ふと見上げると細い蜘蛛の糸が垂れ下がってきているのに気が付きました。しめた、これを伝っていけば極楽に行けるかもしれぬ、とひたすら登っていきます。途中上を見上げると確かに明るい世界が見える、もう少しだ。しかし下を見やるとそこには自分と同じ糸を伝ってどんどんほかの悪人どもがすぐそこまで来ている。降りろ、これはおれの糸だ、とカンダタが叫んだ瞬間に糸は切れ地獄へ真っ逆さまに。
私たちのまわりにはこうした救いの糸が確かに存在するように思えます。要はそれをどのように自分が信じていくかではないでしょうか。
お念仏は誰にもできるた易い行と言われます。しかしその一方でひたすら続けていくことはそれほど簡単ではないかもしれません。
カンダタは光明の気配を感じ取ることができました。しかしその後、他人に対する気配(きくばり)に欠けました。
とはいえ私もまたカンダタと何も変わりません。もとよりこのように批評する資格など持ち合わせておりません。ただお念仏申すのみです。
お彼岸が巡って参ります。それまでには本当に涼しなるよう念じおります。 どうぞお彼岸にはお墓に、中日法要にお参りください。