2021年6月号『遣らずの雨』
かつてお施餓鬼法要の日に夕立がありました。本堂での法要が終わり、檀家さん方はお塔婆をお墓に立てて、さあ帰ろうとしたその矢先に大粒の雨がざあっと降りだしたのです。
濡れて帰るには強すぎる雨でしたので誰もがいったん足を止めました。そのときある方が「遣らずの雨だあ。帰らないでくれって言っているんだ」とつぶやきました。それを聞いた人たちは帰りたいけれど帰れないというような表情をしていたように思います。
言うまでもなく「遣らずの雨」とは帰ろうとする人を引き留めるかのように降ってくる雨のこと。亡き妻がまだ自分を帰さないといち早くこの方は感じたと思われます。声なき声が雨に託されたことをこの方は見過ごしませんでした。先立たれても、なおその方と向き合っているのでした。
法然上人のお言葉の一節です。
先に生まれて後を導かん。引摂縁はこれ浄土の楽しみなり
(先立つ者が残された者を導くのです。縁ある人を迎え取ることは浄土での楽しみです。)
この方は数年前に極楽浄土に旅立たれましたが、待たれていた奥様と共に仲睦まじく過ごされているご様子が目に浮かびます。
さて、古来、雨は天の意志としてとらえられ、雨の日に外出することは控えられてきた時代がありました。今も雨天中止の行事があったり、雨降りだと外に出ないと決めている方も多くあります。雨を畏敬しつつも雨の日の自由な過ごし方があるようです。
コロナはそんな時代に私たちから外出する自由を奪い取りました。人と接することは制限され、会話も自粛を求められます。さまざまな重大な影響が続きメンタル面ではうつになる人も増えたと報じられます。
ともすれば孤独に陥ってしまうようなとき
こそ仏さまの世界に向き合いやすいと存じます。お念仏申すことは、今、浄土に実在する仏さまに対して安寧を、救いを切に願うことです。
雨の音 聞く人ありて 雨の音
雨音は仏さまがいつも私たちを見てくれているように感じられます。やさしく包んでくれるように聞こえてくるようです。それに応えるようにお称えするのがお念仏。
残念ながらお寺の本堂でご一緒にお念仏を申すことはまだ叶いません。しかし私たちがひとりで、いつでもお念仏できることには変わりはありません。
七月はお盆月。墓参の機会も多くなります。感染対策をしながら大切な方の、ご先祖様の想いに触れてはいかがでしょうか。
住職 清譽芳隆